
10月上旬、友人とスペイン・ポルトガル旅行をした。もっともポルトガルは付け足しのようなもので、飛行時間を考えると実質スペイン国内旅行は9日間というところか。スペイン・ポルトガルはイベリア半島に位置しており、ピレネー山脈を北の堺としてフランスに隣接した国である。現在両国はEU加盟国であるが、かつてはピレネー山脈の向こう側はヨーロッパではないといわれたことがあるが、確かにイスラム文化の影響が顕著であった。結果論から言えば、今回の旅はバスによる移動時間が見学時間より長いという、非常に疲れた日程であった。
なにしろスペインは日本の1.3倍の広さで、日本国内で言えば太平洋側と日本海側に沿って、バス旅行しているようなものである。添乗員には、今回は一通りスペインを知ってもらい、次回気に入った観光地を下見するという気持ちで観光してもらいたいと、変な慰め方をされたものである。
さて、我々は総勢38名という一行である。飛行時間ルフトハンザ機でフランクフルトまで11時間、市内で夕食、数時間後にバルセロナまで2時間半という強行軍である。爺婆を引き連れた添乗員はさぞかし大変であったろう。しかし、さすがは職業意識に徹していた。その日のうちに名前と顔を覚えてしまったのである。ちなみにその間食事は6回、食べ過ぎ。
バルセロナ
バルセロナ
聖家族教会
グエル公園陸橋
グエル公園テラス
オリンピック競技場
バルセロナは1992年のオリンピック開催地としてよく知られている。例のごとくオリンピック競技場を見学。オリンピック終了後は、どのような有効利用しているのか、ただそれだけの感想である。規模は小さいが、日本の国体も開催都道府県の負担は並大抵のものではなく、終了後の維持費も含めて一巡した現在、その見直しが迫られているという。
バルセロナの観光は最低3日は必要とのこと。我々は、その中でガウディという建築家(1852~1926)の作品群のうち、聖家族教会(サブラダ・ファミリア)とグエル公園を見学。聖家族教会は現在も工事が続けられ、完成は100~200年後という。よく写真で見て知っているが、実際に実物を見るとその規模と威容さに圧倒される。
グエル公園はバルセロナを見下ろす高台にあり、彼はここを高級住宅地にすることを任されたが、2棟の住宅が現在あるのみ。共同スペースとして建設された広場(テラス)や散歩道が、変わった姿で我々を出迎えてくれた。あちこちに使用されている破砕タイルの装飾と奇妙な柱廊と陸橋のデザイン。おもしろかったの一言。
バレンシア
バレンシア
ラ・ロンハ
ミゲレテの塔
バスで南下する途中立ち寄った都市。世界遺産に登録されているラ・ロンハを見学。といっても内部には入らない。15世紀に建造されたゴシック様式の建物で、交易取引所として、絹などの商品の取り引きがおこなわれた。その斜め前に、中央市場がある。生鮮食品をはじめとしてありとあらゆる商品があった。子羊がそままの姿で赤裸のままケースに収まっていたのにはビックリ!日本人が農耕民族であることを実感した。ラ・ロンハの前の広場からミゲレテの塔とカテドラルが見える。ミゲレテの塔は14~15世紀に造られた八角形の石の鐘楼。その右にカテドラルがある。3世紀中ごろ、かつてのイスラム教のモスクがあった場所に建てられた教会である。
ラマンチャ
ラマンチャ
風車
中央市場
昼食後バスにゆられてラマンチャ地方のカンポ・デ・クリプターナで風車を見る。ここはセルバンテスの有名な作品『ドン・キホーテ』の舞台となった所。主人公のドン・キホーテが、騎士道物語を読みすぎて妄想に陥り、みずから騎士となりサンチョ・パンサを伴って、この地で風車を敵と見間違えて戦いを挑んだ。風車は役割を終え、のんびりとした田園風景の中に溶け込んでいる。
車窓で道の両側に変わった木が林立している。幹が赤くなったのもある。ガイドの説明では赤いのは消毒液が塗られたものとのこと。コルク樫というのだそうだ。ワインのあの栓は、この幹から剥いだものだ。九年ごとに8~9センチの厚さのコルク層を剥ぐ。皆さんご存知でしたか?
グラナダ
グラナダ
アルハンブラ宮殿夜景
フラメンコ
三姉妹の天井
ライオンの中庭
グラナダといえば、なんといってもアルハンブラ宮殿である。イスラムのスペイン支配最後の牙城。1492年、無血開城により、カトリック軍によるレコンキスタ(国土回復運動)は終わった。
イスラム教は偶像崇拝を禁じており、その代わりにタイルの模様が発達した。宮殿内には様々な模様(文様)が壁に天井に柱に施されていて美しい。
広大な宮殿のの中庭の一つ、ライオンの中庭が印象的。時間を告げるライオンが12頭、口から水を吐く。いわゆる水時計である。
スペインといえば、フラメンコ。ジプシーの芸能から発展した情熱的な歌と踊り。ジプシーについてはよくわからないがインド北西部が発祥の地といわれ、6~7世紀から移動を始め、今ではヨーロッパ諸国、その他に広く分布する民族。私の感覚ではフラメンコといえばすべて同じだと思っていたが、添乗員曰く、セビリアで予定されているフラメンコディナーショーとは違い、人を酔わせるフラメンコがグラナダにあるので、是非視てほしいといわれ、夕食後見に行った。翌日のフラメンコはCDに合わせ美しい衣装を着たおとなしいものであった。宝塚を見ているようなものだった。だがこれは違う。激しく手、足を動かし踊り、人を魅了する。終わってフーとため息が出た。
コルドバ
コルドバ
メスキータ内馬蹄形アーチ
花の小径から鐘撞塔を望む
メスターキ西側正門
メスターキ内カテドラル
コルドバはアンダルシア地方の三大都市の一つ。かつてのイスラム王国の首都であった。世界遺産にも指定されている。
アフリカ大陸と至近距離の地理的要因から8世紀初頭より八百年の長い年月、イスラムの支配を受けてきた地域である。コルドバにはユダヤ人街が残っているが、その間、キリスト教徒とイスラム教徒という三つの相反する宗教が共存することになった。このためスペインは有数の学芸の中心地となり、ヨーロッパ各国に文化がもたらされた。この三者の平和的な協力共存がなければ、ルネッサンスは成立しなかったといわれるほどである。
ただ残念なのは、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の成功により、ユダヤ人はスペインから追放される。
コルドバといえばメスキータであろう。世界最大級のモスク。中に入ると馬蹄形アーチが目前に広がり圧倒される。13世紀前半にコルドバの地がキリスト教徒に奪還された後は、キリスト教カテドラルとして利用されてきた。馬蹄形アーチを破壊し、ゴシック様式の主礼拝堂を創建。改築部分はゴシック、ルネッサンス、バロックの各様式が混在している。完成まで約240年という歳月がかかっている。異宗教、多様式の混在した不思議な場所だ。
セルビア
セルビア
スペイン広場
王城・ライオンの入口
王城・庭園
イベリア半島がローマ帝国の属州であった時期、セビリアはヒスパリスと呼ばれていた。その後、ゲルマン民族の大移動による西ゴート族(ゲルマン民族)の支配下にあった時代にキリスト教がもたらされた。その西ゴート族王国も、711年イスラム軍の侵攻を受け滅亡。イスビリアと呼ばれるようになった。イベリア半島の非ヨーロッパ化が始まった。
1248年、フェルナンド三世がカスティーリャ王国の名をもってセビリアを攻略征服し、カスティリア王国の首都とした。1469年、カスティーリャ王国のイサベル王女とアラゴン王国のフェルナンド皇太子が結婚、1479年に両国が統一、スペイン王国が誕生した。
1492年は、スペインにとって大変重要な年であった。グラナダが陥落レコンキスタ(国土回復運動)が終了したこと。イサベル女王の援助のもと、ジェノバ人コロンブスがサンタマリア号ほか計三隻の船に乗り込み、ハロスの港を出発した。コロンブスはマルコポーロの『東方見聞録』の影響を受け、ジパング(日本)を目指したのだが、結果的にアメリカ大陸を発見、この発見によりセビリアは植民地貿易の富により、全世界の中心地になり繁栄したのである。
我々が見学したのはアルカーサル、カテドラル、ヒラルダの塔、セルビア大学である。
アルカーサル イスラム時代から王宮があったが、キリスト教王の王宮となり、歴代の王によって改築が繰り返され、様々な様式が混在した宮殿となった。
カテドラル イスラム支配時代の大モスクを基礎として建てられた。約100年を費やして完成、世界三大カテドラル(バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂)の一つとなった。
ヒラルダの塔 イスラム支配時代に祈りの呼びかけが行われたミナレット(尖塔)で16世紀カテドラルの鐘楼塔として改造された。
セルビア大学 メリメの小説『カルメン』の女主人公(カルメン)は、タバコ工場の女工として描かれている。そのタバコ工場が、現在セルビア大学法学部校舎になっている。
カテドラル
ヒラルダ
セルビア大学
エヴォラ
エヴォラ
ディアナ神殿
カテドラル
バスコ・ダ・ガマの像
聖フランシスコ教会
セビリアで昼食後、約450キロの距離を半日かけてバス移動。今日は日本を出発して五日目。国境を越えてポルトガルに入国する。途中、城壁に囲まれたエヴォラを見学。町のシンボルでもあるディアナ神殿、城壁もそうだが、この神殿も古代ローマの遺跡である。この神殿、一時期砦として利用されたために、14本のコリント式の柱、柱基や柱頭がきれいに残っている。
その神殿を通り抜けると、左右非対象の二つの塔が特徴のカテドラルがある。見学時間が終了間際に見学。外に出てビデオ撮影中、五時を告げる鐘が鳴った。
ポルトガルはレコンキスタ(国土回復運動)がスペインより早く終了しので、一足早く大航海時代を迎えた。15~16世紀にかけてポルトガルがもっとも繁栄した時期だ。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見、カブラルのブラジル発見、マゼランの世界一周と、世界の文化・芸術あらゆる面に多大な影響を与えた。
日本もポルトガルとは深い縁がある。1543年種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が日本に伝わった。イエズス会のフランシスコ・ザビエルが布教のため来日したのが1549年。4人の少年が天正遺欧少年使節団として遠路はるばるスペイン、ポルトガル、イタリアを訪れた。エヴォラのカテドラルのパイプオルガンを演奏したといわれている。江戸幕府の鎖国により、ポルトガル船の入港を禁止するまで百年間、日本とは密接な関係にあった。
それにしても疲れたなあ!
リスボン
リスボン
コメルシオ広場
シントラ・王宮
ジェロニモス修道院
1255年ポルトガルの首都となる。ポルトガルは、イベリア半島の六分の一の広さを領する国である。ポルトガルはレコンキスタ運動中、アンリ・ド・ブルゴーニュがイスラム教徒と戦った報酬として、レオン国王アルフォンソ6世から土地を与えらた。その後ポルトカリア伯爵と呼ばれ、その息子アフォンソ1世がポルトガル王であることを宣言し、現在の国境線を形成した。
1755年、リスボン大震災が起こり町は壊滅、多くの遺跡や文化遺産が破壊されてしまった。その後パリを見本にして作られ、整った町並みとなった。天候があやしい雰囲気であったので、まずロカ岬に行った。雨が降り、風が強く、波はゴウゴウと音を立てて断崖に砕け散っている。ここはユーラシア大陸の最先端の地として有名。岬に立つ十字架の塔にポルトガルの詩人の『ここに地果て、海始まる』の一節が刻まれている。早々とロカ岬を出発し、シントラに行く。王宮を見学。14世紀の初め、エンリケ航海王子の父が建てた王宮。外から見える台所の2本の煙突は、町のシンボル。豪華な内部の内、天正遣欧少年使節団が招かれたといわれている白鳥の間は、さすがに見事。
ベレンにはジェロニモス修道院がある。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念してエンリケ航海王子が設計した礼拝堂を基に、多くの植民地から徴収した莫大な建築費で作られた修道院。大航海時代の繁栄を象徴した建物である。
修道院から1キロの所に、川からの侵入者を見張る砦として建てられたベレンの塔がある。世界遺産の一つ。その川沿いにエンリケ航海王子の死後、500年を記念して建てられた発見のモニュメントがある。帆船をイメージした船の先端にはエンリケ航海王子が立ち、その後にバスコ・ダ・ガマなど27人の偉人が続く。
ロカ岬
ベレンの塔(版画・I氏提供)
発見のモニュメント
バターリャ
バターリャ
オビトスの城壁
シティオよりナザレの町並
勝利のサンタマリア
修道院
未完の礼拝堂
今日も、リスボンを出発して、ポルトまでバスにて移動する。途中オビトスに立ち寄る。中世の城壁に囲まれたこの町は、代々の王妃の直轄地であった。町は南北に細長く城壁は高さ13メートル、全長1565メートル、イスラム教徒が占領していた時代に造られたもの。高台からは、花に彩られた白壁の美しい町並みが見られるはずだが、あいにくの雨で煙り見ることはできなかった。残念!
さて、ナザレで昼食となるがその前に、山の上のシティオ展望台で大西洋の波打ち寄せる白い海岸と町並みを見た。昼食は鱈とライスの炒め物、デザートはシロップのかかった焼きリンゴ、日本人の好みにあった味であった。
バターリャに到着して「勝利のサンタマリア修道院」を見学。地名のバターリャは「戦い」という意味のポルトガル語。戦勝記念の町である。1385年、ポルトガルに侵入したカステリャ軍を、ジョアン1世はわずかの兵力で迎え撃たなければならなかった。彼はこの戦いに神の助けを求め、勝利の暁には修道院を建てると約束した。この戦いに勝利して1388年着工。百年もの歳月をかけて建てられたが、未だに完成していない部分がある。青空の見える「未完の礼拝堂」がそれだ。
ポルト
ポルト
ポルト市内
グレゴリオスの塔
さらし台
リスボンに次ぐ第二の都市。ポルトガルという国名発祥の町でもある。ポルトに隣接するドウロ川の南側ガイア地区はかつてカレといった。ガイアはラテン語で呼ぶと「カレ」。貿易の港(Portus)としてこの辺り一帯をポルトゥス・カレ(カレの港)呼び、国名の語源となったのである。
クレリゴスの塔(77メートル)を見ながら教会を見学。クリスチャンでもなく美的感覚もない私には、教会は皆同じでもう見飽きた!広場にさらし台がある。日本橋のたもとにも同様のものがある。見せしめのため、生き恥をかかせるのである。例えば不義密通が露見した場合。ここのは前後にさらしたようだ。またまたサンフランチェスコ教会を見学。その後、世界的に有名なポルト・ワインの工場を見学。日本の酒造所と同様の案内、そして試飲。これが楽しみだった。昼食後、国境を越えて再びスペインへ。これでポルトガルとお別れなので、ポルトガルの歴史の一コマを記しておきたい。
イベリア半島の統一は建国以来のポルトガルの夢であった。その実現化の一つに、スペイン王室との血縁関係の緊密化がある。一方、スペインも政略結婚を推し進めていた。名門ハプスブルク家から婿入りしたフィリップ1世の息子、カルロス1世がスペイン王となる。スペイン・ハプスブルク家の始まりである。カルロス1世の息子、フェリーペ2世はポルトガルの王女と結婚していた。父カルロス1世からスペインと神聖ローマ帝国の海外領土を継承し、しかも1581年にはポルトガルの王位継承者が途絶えたため、広大な海外領土を所有していたポルトガル王位をも継承した。この頃が『太陽の沈むことなき大帝国』といわれるスペインであった。皮肉なことにポルトガルのイベリア半島統一は実現したのだが、実態は支配されていたのであった。この実態は、1640年まで続いた。
サンフランシスコ教会
大聖堂
ワイン工場
サンチャゴ・デ・コンポステーラ
サンチャゴ・デ・コンポステーラ
サンチャゴの町並み
サンマルティン・ビナリオ
修道院
大聖堂
大雨だった。出発前旅行社の添乗員から、今年はヨーロッパは天候不順で雨靴を持参されるのが賢明だといわれた。私は近所の店を探したが、これと思う品がなかったので、履いて行くスニーカに防水スプレイをした。確かに北欧の洪水が放映されていたし、我々の旅行もフランクフルト、ロカ岬は傘を必要としたし、何箇所かの見学地では小雨がぱらついたこともあった。が、今日の降りは尋常ではなかった。びしょ濡れにはなるし寒さは募る。挙句の果てには10人ほどが迷子になってしまうというアクシデントがあった。
しかし、さすがは添乗員、彼のゴム長靴のド派手な色合い、みなを大笑いさせ、我々を和ませ快い旅を続けさせてくれたのであった。
サンチャゴとはスペイン語でヤコブのこと。キリストの12使徒の一人、聖ヤコブの遺骸が海路運ばれてきて、この地に埋葬されたという伝説があった。その聖ヤコブの墓が、9世紀に星に導かれた羊飼いによって発見された。すぐ教会が建てられ、このカテドラルは最終目的地として多くの巡礼者が訪れる町となった。
昼食後、レオンに行く途中アストルガに立ち寄る。
アストルガは「銀の道」(ローマ時代の幹線道路)とサンティアゴ巡礼路の交点に位置する小都市。司教館を外から見学。19世紀末火災に会いその再建を依頼されたのがガウディ、それで別名ガウディ宮殿とも言われているようだ。デイズニー映画に出てくるようなかわいらしい建物だ。建物の先端に大きなかたまりがある。なんと日本では絶滅してしまったコウノトリの巣である。私には、それが建物とマッチしていると思われ、いつまでも飽きずに眺め続けていた。
ヤコブ像
アストルガの司教館
ヤコブの銀の柩
レオン
レオン
ボティネス邸
サン・イシドロ教会
10~12世紀のレオン王国の首都である。また中世には巡礼の中継地として大きな役割を果たした。レオン王国は1230年にカスティーリヤ王国に併合され、スペイン統一の基礎を形成した。レオンの中心部、サント・ドミンゴ広場からガウディの作ったボティネス邸を見学。レオンの大聖堂(カテドラル)はスペイン三大ゴシック建築の一つに数えられる。次にサン・イシドロ教会を見学。レオン王国の国王、王妃たちの霊廟がある。レオン見学後サマランカへ。
サマランカ
サマランカ
貝殻の家
サマランカ大学
サマランカは古代ローマの植民都市。レオン同様銀の道の中継都市として栄えた。13世紀にはヨーロッパで3番目、スペイン最古のサマランカ大学を創立、以後キリスト教と学問の中心として発展した。マヨール広場から貝殻の家(現大学図書館)、大学本館を見学して、一路セゴビアへ。
セゴビア
セゴビア
古代ローマの水道橋
仔豚の丸焼き
セゴビアでは、ヨーロッパで最も原型に近い姿で保存されている古代ローマ時代の水道橋を見学。20世紀中頃まで実際に使用されていた。今日は一日中バスを乗り降りして観光地を見学して、少々疲れた。これからまた1時間30分バスに揺られてマドリッドへ。夕食に子豚の丸焼きが出た。子豚は皿で切り取られ皆に配られた。包丁の代わりをした皿は床にたたきつけられ割られた。一種の儀式のようだ。
マドリッド
マドリッド
プラド美術館
裸のマハ(ゴヤ)
プリンシペ・ピオの丘の
銃殺(ゴヤ)
この旅行も終わりに近くなった。日本を出発して11日目。今日は午前中は、プラド美術館に行き、芸術作品を鑑賞する。この美術館は8000点以上所蔵する世界有数の美術館である。そしてもう一つ誇れる大きな特徴は、英国の大英博物館が別名泥棒博物館といわれるような、略奪品が一切ないということだ。
ただ残念なのは、団体は入場に制限があり、一時間ほどしか館内にいられないことである。したがって現地案内人も、有名な作品を大急ぎで紹介するという始末である。我々はゴヤ門から入ったが、正面はベラケス門である。
ベラケスの作品『ラス・メニーナス(女官たち)』を鑑賞する。パレットを持ってキャンバスに向かっているのはベラケス自身である。また後ろの鏡の中にフェリーペ四世夫妻が描かれている。説明では明暗の対比、色彩のぼかしにより光の面を抜き取った、奥深い画面を生み出していて、これを空気遠近法と言うのだそうだ。次に鑑賞したのが、ゴヤの着衣のマハ、裸のマハで私でもこれぐらいは知っている。美術館を出て三越でショッピングタイム、昼食後トレドへ。バス待ちの時にハプニング。友人が、ジプシーの若い女の子に危うく財布を抜かれそうになった。その方法は、一人が地図を広げて道を教えてくれといい、もう一人の相棒が地図の下からウエストポーチのチャックを開けていたのである。同じツアーの人がそれを見ていて大事に至らなかったが、本人は全く気が付いていなかった。
ところで、マドリッドは1561年フェリーペ二世によってスペインの首都となった。この時代、世界一の大帝国になったが、対外的には独立運動が盛んとなったネーデルランドと反スペイン政策をとるイギリスの対処に失敗し、オランダの独立、ドーバ海峡で「無敵艦隊」を失い、フェリーペ二世の威信は地に落ちた。フェリーペ二世の曾孫カルロス二世は、四歳で即位したが宮廷内の権力闘争や陰謀が繰り返され、スペインは衰退の一途をたどった。カルロス二世は後継者のないまま、スペイン王位をブルボン家(フランス)のフィリップ(「太陽王」ルイ十四世の孫で、カルロス二世の父王フェリーペ四世の曾孫)に譲位するという遺言書に署名して35歳の生涯を閉じたのである。これはスペイン・ハプスブルク王朝の終焉であり、スペイン・ブルボン王朝の誕生であった。
地図へ
ラス・メニーナス(ベラケス)
スペイン広場
王宮
トレド
トレド
トレド全景
サン・マルティン橋
カテドラル
オルガス伯の埋葬
マドリッドから約70キロ、タホ川に取り囲まれ島のように見えるトレドは、ゲルマン民族西ゴート王国の首都として栄えた。8世紀以降イスラム支配の後、1085年キリスト教徒が奪回し、1561年マドリッドが首都になるまでの一時期、トレドが首都であった。高台に広がる美しいトレドは、さしずめ日本でいう奈良というところか。
細い路地を抜け、カテドラルを見学。鐘楼の高さは90メートル。西ゴート王によって建てられた。イスラム時代にはメスキータに造り替えられた。1226年フェルナンド三世の命により、工事が始められ、完成は1593年。その後サント・トメ教会を見学。この教会はエル・グレコ(1541~1614)の傑作の一つといわれる、「オルガス伯の埋葬」という絵画があることで知られる。現地案内人の説明によると、上半分はオルガス伯の魂が聖母マリアとキリストに召される幻想的な天上界。下半分はオルガス伯を葬る地上界。トレドの守護聖人であるアウグスティンとステファノが亡骸を葬るために現れたという奇跡を表現している。二つの異なる世界を一枚のキャンバスの中に描く。地上界の参列者の左から6番目の真っ直ぐこちらを見つめているのがグレゴ自身、一番前の松明を持った少年が息子である。
ここで私は、友人が絵画に造詣が深いことを知ってびっくりした。彼がつぶやくのを聞いたのである。「あまり説明してほしくないな。あれこれ言われると自分なりの見方ができないよ」。うそ!いつも飲んだくれて、夜遊びばかりしているヤツがと正直そう思った。彼は絵が好きで、しょっちゅう東京に来て美術館巡りをしているそうだ。彼の弟は学校の絵の先生なんだそうだ。DNAが彼に伝わっていたんだ。
最後にスペイン・ポルトガル紀行を終了するが、19世紀初頭くらいまでのスペインの大まかな歴史を、引き続き記しておきたい。 |


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