7.続々我が少年時代
我が少年時代で、決して忘れることのできないことのもう一つは、大洪水に遭遇したことだ。
昭和22年9月11日に関東地方を直撃した台風、当時は占領下故、現在のような台風○号とは言わず、女性の名前を付けていた。この関東地方を直撃した台風は「キャスリン台風」と呼ばれている。
この年、住民は春先から大きな和船を造り、納屋の軒先に格納していた。台風一過快晴のもと、学校からの帰宅途中渡良瀬川に様子を見に行った。渡良瀬川は、足尾銅山鉱毒事件で田中正造が明治天皇に直訴したことで有名。利根川の支流で栗橋で合流する。見に行って驚いた。堤防から後1m位まで水位が上がっている。また川がものすごい勢いで、川上へ川上へと流れている。逆流しているのである。
我が一族も堤防が切れるのは必死と、家の中にある高塚に必要物資を搬入していた。真夜中に半鐘が鳴り、堤防が切れたという叫び声が聞こえてきた。我が家の高塚は渡良瀬川の改修工事で必要としなくなった堤防の一部をそのまま取り込んだものである。したがって当時の川の脇の家でなければ高塚はなかった。切れた川の水が、我が家の庭先まで来るまで約30分かかった。水は、古い川筋に沿って流れてきたので遅かったのである。時間が経つに従って、「助けて」とか人の名を呼ぶ声があちらこちらから聞こえてくる。
この高塚も後30㎝位で冠水する状態だ。我が一族も、危ないから船に乗る準備に入った。幸いそれ以上の増水がなく、夜が明けた。目を見張った。辺り一面泥水だけだ。あちらこちらに冠水した家の屋根が見える。家が流されてくる。動物の死骸が流れてくる。こういう状態で1週間位水は完全にはひかなかった。その理由の一つは、我が村は輪中になっていたからだ。堤防には避難した人々が野宿をしていた。堤防は古河市と結ぶ三国橋で300m位切れていた。そこは東武伊勢崎線の駅があったところ。もちろん駅は跡形もなく、線路はアメのようにグニャグニャに曲がり、広場は抉られ沼になってしまった。 聞くところによると、堤防が切れるまで両岸で土嚢を積んでいたが、人口で勝る古河市が守りきったとのこと。しかし結果的にはこれがよかった。古河市側が切れたら、人的被害は大変なものだったろう。また利根川との合流点、栗橋の堤防が切れたがこの水は、東京まで古利根川を伝わって流れたという。江戸時代、利根川は江戸湾に流れ込んでいたのを、幕府が現在の銚子に河川の流れを変えたのである。
復旧・改修工事は20年くらいかかったのではないだろうか。川底の方が高いため、土手全体のかさ上げが必要だったからである。渡良瀬川はここずっと氾濫にあったことがなかった。田中正造が一生をこの川の治水事業に尽くしたおかげである。明治時代からほぼ毎年のように氾濫したこの川は、それ以後絶えてなかったという。
このたびの洪水の原因の第一は、もちろん台風の直撃であるが、もう一つの要因は山の荒廃である。これも戦争の影響である。やたらに木を切り出したこと、働き手が戦場に送り込まれ、山の手入れができなかったことにある。このことからも、平和がいかに大切なことか心しよう。