6.続我が少年時代
戦後の私の少年時代、決して忘れられない出来事が二つある。一つは兄の死。私と兄は十歳違い。兄弟といっても、私にとっては怖い存在だった。旧制中学を卒業した兄は、疎開先で代用教員をしていた。当時は田舎の学校では、こういう教員が結構いたようだ。つまびらかではないが、その間兄は、今の埼玉大学(当時はきっと教員養成学校だった)に正規の教員になるために講習を受けていたようだ。この兄が昭和二十一年九月に亡くなった。二十歳だった。戦後一年後である。
田舎の学校故、実習田があり腰までつかって生徒を指導中、倒れた。それから1ヶ月程の闘病生活で、あっけなくこの世を去った。川一つ隔てた隣町は、茨城県の古い城下町の古河市。医者がいなかった。私の考えでは、軍医として徴用され、日本にはいなかったのではないだろうか。従兄弟が南方から帰還したのはこの後だったから、そう推測するのだ。やっと来て診てくれたのは、漢方医だった。腹膜炎とのこと。薬もなかった。父母の嘆きは、並大抵ではなかった。
兄は亡くなるまで意識はしっかりしていた。真夜中に亡くなったのであるが、寝ていた私を父母が起こした。兄が私にいいたいことがあるようだからと。私は覚えている。兄が私に「自分が亡くなった後は、おまえは男なのだから自分の代わりに、家のことをしっかり頼むよ」といったのだ。
葬式は寂しいものだった。東京を焼け出される前、兄と父が何回も長い道のりをリヤカーで必要な生活物資を運んだものの中から、檜造りの風呂を売って葬式代をまかなったのだ。
この時代、志願して少年兵になったものが多く、そのほとんどは戦死している。兄も病死ではあるが、やはり私にとっては戦争の犠牲者だったと思っている。
兄が生きていれば、怖い存在でだったが私にとって、よき先達になっていたのではないか。