5.我が少年時代
最近自分史を書く人が多いそうだ。私はそこまで考えていないが、やたらに少年時代が思い出されるのだ。考えてみると、何ともやるせない時代に、少年時代を迎えていたのである。思い出は懐かしさを伴うのが普通だが、私たち世代は、怒りを覚えてしまうのである。私たちは戦後派といわれているが、学童疎開派と呼んだらよいであろう。
私たちはまず国民学校の学童であった。広辞苑をひもとくと、国民学校とは『戦時体制への即応と皇国民の基礎的錬成を目的とした』と記されている。つまり、軍国主義に忠実に生きる国民を育てる教育を目的にしたものと考えればよいだろう。
だから登校は集団登校であり、校門近くから歩調を取り、校門の上級生・教員の前を敬礼しながら通過し、奉安殿(天皇、皇后の写真や教育勅語の写しを納めておく建物)に向かって最敬礼をしてから、教室に行くのであった。敵機の空襲が度重なるようになると、勉強どころでなくはじめは防空壕に避難したが、空襲がますます激しくなると即帰宅となり、挙げ句の果ては、空襲を避けるために学校そのものが農村地域に移動することになった。私は個人疎開で父の実家に疎開したが、集団疎開した者は大変な苦労をしたと聞いている。
幼心に東京のあちらこちらの空が夜間空襲で真っ赤になっているのを、防空壕越しに見たのを覚えている。そして終戦。私は今あえて「終戦」と書いたが、伝統的な言霊信仰の影響で言葉の言い換えをしているのだ。終戦ではない。「敗戦」だ。進駐軍ではない。「占領軍」だ。これが日本人のいやらしさだといいたい。
我が一家は戦災で焼け出され、父の実家の納屋、それも馬小屋の隣で生活した。馬の臭い、小便の音今でも思い出すとせつなくなる。田舎にいても食糧難は続く。ほんのわずかの米の雑炊の中にサツマイモやカボチャが我が物顔に入っている。サツマイモの蔓も食べたなあ!のびる、はこべも摘んで食べたなあ!空腹で空腹でどうにもならなかった。東京では親を失った戦災孤児が大勢いて、彼らなりの生き方をしなければならなかった。NHKのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』がそういう戦災孤児たちが、助け合って生きていけるようになるまでを描いた作品で、私も夢中で聞いていた。「緑の丘の赤い屋根……」という主題歌は今でも覚えている。
小さい子供とはいえ、昨日まで鬼畜米英と教えていた教師が、一転して「民主主義」を説くのはちゃんチャラおかしかった。特に教科書の、軍国主義に関係する部分を黒塗りした行為は決して忘れられない。
戦後「再び教え子を戦場に送るな」をスローガンに教員組合が結成されたが、本当に反省に基づいたものかどうか、その後の推移を見ると政争の具のために使われたとしか思えない。むなしさを感じるのは私だけだろうか。